大正八年十二月の小雪が舞う冬、島の男に一通の依頼書が届いた。明治神宮の造営にあたり、鶴田蓑輔に北木石を使用する旨を伝える書状であった。鶴田は急いで島の優秀な石工職人たちを集めた。そして翌年(大正九年)、明治神宮依頼の神宮橋の仕事を見事に完了した。その後も次々と明治神宮依頼の石材工事を受注していったことは時の記録に記されている。
日本の歴史が近代化に舵をきったその時、島の歴史が大きく動き出した瞬間でもあった。大正の終わりから昭和中期(昭和32年)には丁場の数は大小127箇所にも膨らみ、北木石は海外にまでその名を馳せ、「石の島」は全盛期を迎えていった。
このような「北木石」がかかわる国家的大事業に一人の明治の男の姿が存在する。男の名は畑中平之烝。島肌に露出した北木石の素材の良さを一早く見抜いた男だった。畑中は自前の紺の羽織袴を身に着け日本全国を飛び回り島の石の魅力を広めて回った。その甲斐あって明治二十三年、日本銀行本店の大掛かりな国家的大事業を手がけることとなる。これを契機に大正、昭和と北木島の石は日本に名を残す歴史的建造物や墓石に使われるようになったのである。
島の石に魅了された維新魂を持つ男、畑中平之烝の輝かしい功績により、後の時代に至るまで膨大な量の「北木石」が日本全国に放たれることになったのである。
昭和八年に奉納された靖国神社花崗岩大鳥居は北木石を使った日本一の大鳥居である。直径1.2メートル、長さ12メートル、重量50トン。瀬戸内海を渡り、神戸を経由し、東京芝浦まで船で運ばれ、九段下の靖国神社に無事建立されるまでかなりの苦労があったと当時の記事に掲載されている。
また、靖国神社の書庫に保管されている『靖国百年史』の中に、鶴田簑輔の名が記されている。国のため、家族のために命を捧げた偉大な先人への畏敬の念が、記録として刻まれていたのであった。
大坂夏の陣以降、徳川幕府によって再築された大坂城は、落雷、明治維新、
第二次世界大戦と何度も炎に包まれたが、石垣だけは当時の姿を残している。
動乱の日本の歴史を400年近く見守り続けてきたのである。
日本銀行本店本館東京都中央区日本橋 |
伊勢神宮 参拝堂の石灯籠三重県伊勢市 |
三越本店東京都中央区日本橋 |
明治神宮 神宮橋東京都中央区日本橋 |
明治神宮 正徳記念絵画館東京都新宿区 |
旧明治生命保険 本社ビル(明治生命館)東京都千代田区丸の内 |
五条大橋京都府京都市東山区 |
薬師寺 西塔奈良市西ノ京町 |
花園東陵 鳥居京都府京都市右京区 |
三菱一号館美術館東京都千代田区丸の内 |